IT系サラリーマンの社会的 blog

社会に対して思ったことを書いてます

ニート

ニート、それは働かなくても生きられることの証明そのもの。
ニート、それは高度な社会が可能にした羨望の生き方。

今回、ニートが新たな生活様式になり得るのかを考察する。

ニートの概要

f:id:WhiteHead:20140616021739p:plain
 先ずは、ニートの概要から説明する。(wiki参照)
日本では、ニートは15~34歳までの若年無業者と定義している。
ニートが世界で最初に使われだした頃の定義は、NEET(Not in Education, Employment or Training)であった。
つまり、就学、就労、職業訓練のいずれも行っていない状態のことである。
ここではニートを日本の定義と同じ意味で扱うことはせず、
働かないという生活様式として定義する。

ニート = 働かない生活様式

 

労働

f:id:WhiteHead:20140616021734p:plain
 先ほど書いたように、ニートが新たな生活様式になり得るのかを検証する。
すなわち、ニートで生きていくことができるのかということである。
一般的に、生きていくためには労働しなければならない。
「働かざる者食うべからず」という有名な言葉や日本国民の3大義務の1つ(正確には、勤労)でもあるぐらい、それは当然のことである。
もっと平たく言うと、社会に貢献しなければならない。
社会に属する人々がそれぞれ自分の仕事をやることで、社会に属する別の人の役に立つ。
社会に属する人々が互いに支え合うことで、一人では決してできないことを可能にしていく。
現代のような高度な社会が実現したのも、社会に属する各人が自分のやるべき仕事をしているからである。
労働なくして社会は成り立たない。
しかし、ニートはそれをしない。
社会の恩恵を受けながらも、社会に貢献しない。
このような一方的な関係をどういうわけか手に入れているのである。
働かないと生きていけないという真理を捻じ曲げた存在、それがニートである。

ニートを可能にしているもの

f:id:WhiteHead:20140616021730p:plain
 なぜ働かなくても生きていくことができるのか。
一人の力で生きていくことは困難であり、社会の恩恵を受けなければならない。
普通はこの恩恵を労働で貢献することで得るわけだが、ニートは労働以外の何らかの方法でこの恩恵を得ている。
だが、労働以外に得る方法は存在しない。
つまり、社会に属する何かが労働をしていないニートに社会の恩恵を与えているということだ。
その社会に属する何かの正体の大体は、以下の2つのいずれかだろう。

  • 家族(ひきこもり、パラサイトシングル)
  • 社会(社会保障

この2つの詳細については触れないことにする。
このことから何が言えるのかというと、ある人が別の人に恩恵を与えることができるほどの恩恵を持っているということである。
現代社会において、貢献と恩恵は等価交換ではない。
社会全体でみれば、1つの貢献で1つ以上の恩恵を得ることができている。
それほどまでに、社会は発達し効率的になっているのである。
すなわち、今の社会はある程度のニートを許すほどの余裕があるということである。
あとはどうやって余裕のある人から恩恵をもらうかであるが、それは情ということにしよう。
まとめると、現在の社会は貢献していない人に恩恵を与えることができるほどの余裕があり、貢献していない人がその余裕を分けてもらう方法は情である。

ニートは許されるのか

 社会に余裕と情さえあれば、ニートが可能だという事が分かった。
ニートをすることは、はっきり言って非常に簡単だろう。
日本社会には大量の余裕があり、情については憲法(日本国憲法第25条)で保障されている。
個人にとてつもない覚悟さえあれば、ニートは可能である。
社会にとって、ニートは大問題である。
それは労働者の数の観点でなく、労働の概念の観点からである。
前に述べたように、労働なくして社会は成り立たない。
この労働そのものを否定する存在がニートである。
ニートの存在を許すということは、労働を否定し、社会が終焉を迎えるということである。
そこまで極端な状態にならないとは思うが、いずれにせよニートによって社会は存亡の危機に陥るだろう。
当然、ニートが社会を揺るがすことを誰も許容しない。
つまり、ニートという存在は許されないのである。

ニート対策

f:id:WhiteHead:20140616021721p:plain
 労働の概念が否定されるため、ニートの存在を許すことはできない。
ここではニートを働かない生活様式としており、一般的な意味である若年無業者ではないことに注意してほしい。
すなわち、働いていない者を許さないということではなく、働かない生活様式を許さないということである。
このニート対策としては、ワークライフバランスを重要視することである。
労働するかしないかの生活様式としか考えられないと、ワーク100%かライフ100%かという極端なものになってしまう。
最近だと、ワーキングプア生活保護の問題がそうだといえる。
ワーキングプアだと、働いて貢献しても社会の恩恵が小さいので、これからも社会に貢献しようとする意欲が薄れてしまう。
生活保護だと、働かなくても社会の恩恵が得られるので、社会に貢献しなくてもいいと思い込んでしまう。
この2つの間にちょうどいいバランスがあると考えている。
そのバランスだが、働いているいないに関わらず、従来の生活保護と同等の恩恵を与えることである。
分かりやすく言うと、生活保護をもらいながら働くことができるということである。
経済的な観点からみると、これだと働かない方がいいと思える。
しかし、労働の概念の観点からみると、これでいいのである。
この場合、ワーキングプアだと、とりあえず必要最低限の恩恵は受けられるので、従来より労働意欲は低下しないだろう。
生活保護だと、労働をすれば従来より恩恵を得られるので、労働する意欲が湧くかもしれない。
働くか働かないかの2元論ではなく、多種多様の選択をできるようにすることが大事である。

社会とニート

f:id:WhiteHead:20140616021715p:plain
 最近のワーキングプア生活保護の問題から分かるように、労働の概念が揺らいでいる。
働かなくてもいいほどの余裕がある社会になった証である。
労働の概念が揺らぐことは、社会が発展するにあたって必然なことだと思われる。
社会発展の副産物がニートである。
しかし、社会はこの副産物のニートを許しはしない。
ニートにとってはたまったものではない。
生み出しておいて許さないという理不尽を、ニートは耐えなければならない。

ニート、それは生きていても働くことができない存在。
ニート、それは高度社会が生み出した理解されない者。
それがニート